プロフィール

藤井ひろひさの写真

藤井 裕久

HIROHISA FUJII

1962年(S37年)
4月5日生

趣味
読書/草野球/ゴルフなど
好きな言葉
「一期一会」「一隅を照らす」
モットー
やればできる

学生時代

  1. 1968年 小学生時代 —— どんな少年時代でしたか?

    1968年 小学生時代
    田んぼや里山を駆け回って、友達と日が暮れるまで遊んでいました。小学校から帰ってくるとランドセルを放り投げて、筍を掘ったり、お宮の境内で遊んだりしていましたね。 小学校4年生になってからは野球を始めました。放課後になると、近所の郵便局長がグラウンドに来て野球を教えてくれたんですね。当時はピッチャーや外野手をやっていました。

     両親は自営業をやっていましたので、ほとんど家にいませんでした。弟1人、妹2人の四人兄妹で、私が長男でしたから助け合って妹を寝かしつけたりして。ご飯は両親が炊いていってくれたので、子どもだけでそれを食べたり。でも、よく近所の家にお世話になっていましたね。そこでご飯を食べたり、もらい湯をしたり。本当に近所の方々にはお世話になりました。

     得意科目は体育ですね。鉄棒やかけっこが得意で、やっぱり体育が好きでした。あとは理科と図工かな。でも、算数は苦手でした(笑)。
  2. 1974年 中学・高校 —— 中学・高校時代の思い出は?

    1974年 中学・高校
    中学では生徒会活動を頑張っていましたね。中学校3年生の時は生徒会長でした。

     伝統的に美化活動に力を入れる学校だったので、そうしたことに取り組んだり、運動会でもどんなアトラクションを取り入れていこうかと考えたり、いま振り返るとすごくいい思い出ですね。

     でも、やっぱり中学・高校の思い出といえば野球です。とにかく野球に明け暮れていました。中学時代はピッチャー、高校時代はキャッチャー。高校はわりと進学校だったんですけど、あまり勉強しろと言わない学校だったもので、とにかくずっと野球をやっていましたね。特に中学時代の野球部の監督にはすごく親身になっていただいて、自宅に泊めていただいたりもして。社会人になってからも折に触れて相談に乗ってくださるなど、本当に恩師と呼べる存在ですね。
  3. 1980年 大学時代 —— 大学時代のエピソードを教えてください。

    1980年 大学時代
    大学は工学院大学という新宿にある大学に進学しました。

     高校時代は物理がいちばんの得意科目だったんですけど、当時は富山県内に建築・土木系学科がなかったんですね。なので東京に出て勉強しようと。私は建築学科だったのですが、特にデザインの授業が好きでした。卒業論文のテーマは、「健康増進センターの建築計画」。鉄道やバスを乗り継いで全国の有名な健康増進センターを回ったのはいい思い出です。

     学業と並行してアルバイトもいろいろやりましたね。ホテルマンとして婚礼や配膳サービス、ロシア料理店での皿洗い、物流の倉庫で仕分け作業なんかもやってました。バイト先でも友達がたくさんでき、その友達とは今でも親しい付き合いをさせてもらっています。

     それに加えて大学では工学部でOB会のお世話をさせていただいていました。富山県支部長を務めているのですが、卒業してから長い付き合いの先輩や後輩ができたのも大きかったですね。

議員時代

  1. 1998年 青年会議所 消防団 —— 青年会議所では、どのような活動に力を入れていましたか?

    1998年 青年会議所 消防団
    青年会議所にはいとこの紹介で29歳の時に入会し、40歳まで11年間活動していました。

     この活動を通じて多くの経営者の方々と出会うことができたことは、私にとって大きな財産ですね。大人になってからこれほど濃密な人間関係が築けるようになるとは思っていませんでした。青年会議所では一年ずつ所属する委員会が変わっていくのですが、その中で環境問題に取り組むことができたのは大きかったですね。

     生物多様性に関する取り組みなど行っていたのですが、いま考えると現在の政策にもつながる活動だったのではないかと思います。

     その後、青少年育成委員会に所属したのですが、これが私にとって大きな転機となりました。青少年のため様々な取り組みをするのですが、やはり対象も限られててしまうし、予算も限られているので大きなインパクトが出せない。じゃあどうしたらいいんだというところから政治に興味を持つようになっていったんです。

     また青年会議所では、会員の方々との交流を通じて自分のリーダーシップというものを磨く経験もさせていただいたと思っていますので、大変感謝しています。
  2. 2009年 消防団 —— PTAや消防団でも長らく活動されてきました。

    2009年 消防団
    地元の小学校のPTAだけでなく、富山市PTA連絡協議会でも会長を務めさせていただいていました。

     いじめや不登校、学校の教育環境の整備といったことを各学校の代表や地域の方々と議論しつつ、富山市教育委員会とも密に連携を取りながら問題に取り組んでいました。

     当時から市のPTA会長という立場で教育長と「次はどんなことやろうか」などと直接やりとりさせていただいていたのは、非常にありがたい経験でしたね。消防団には20歳代中頃から市長になるまで入っていました。

     消防団員って市長が任命権者なので、市長になったら消防団を辞めなければいけない。それがショックでしたね。消防団ではポンプ車からチェーンソーといった器具の扱いまで勉強して、人命救助の初歩的な対応などはできるように。もちろん、実際に火の中に飛び込んでいったりというのはプロの消防士がやるわけですけど、行方不明者の捜索とかはやりましたね。あとは地域と連携しての防災とか。
  3. 2011年 県議会 —— 県議会議員や富山市長として最も力を入れてきた分野は?

    2011年 県議会
    ひとつは教育です。青年会議所やPTAの活動を通して、長年いじめや不登校の問題に取り組んできました。

     その間、例えばネットを使ったいじめだったり、発達障害や多動性という言葉が出てきたりと新たな課題が浮かんできた。こういう支援に力を入れていかないと子どもたちがしっかり育たない、そういう思いで取り組んでいます。

     また富山では建設関連企業が除雪やいざという時の災害対応を請け負っていたりもするので、建設関係には力を入れていかなければなりません。

     そして日本人の礎というのはやっぱり米作りですので、農業関係にも取り組んできました。さらに富山市がこれまで進めてきたコンパクトシティ、これをさらに進化させていく必要があると思っています。こうして挙げていくとキリがありませんが、いずれにしろ大切なことは市と県や周辺市町村としっかり連携していくということです。それぞれがバラバラに動いていたのでは非常に非効率ですし、結果として税金の無駄遣いになってしまいかねない。今後も県としっかり連携しながら市政を進めていくことが重要なのだと思っています。

市長時代

  1. 2021年 市長 —— 家族のなかで市長はどんな存在?

    2021年 市長
    今は妻、長男夫婦2人の孫、そして私の母と別棟ではありますがみんな同じ敷地内に住んでいて、おかげさまで賑やかにやっています。

     ありがたいことに母もまだまだ元気で、毎日のように怒られています(笑)。長男以外にも、次男、三男、そして長女と4人の子どもがいます。

     私自身、市長という存在は「市民のお父さん」だと思っているんです。市民の話をよく聞く。寄り添って相談に乗る。失敗しても励ます。こういうイメージで市長を務めているんですね。だからこそ、まずは家族に対してもそのように振る舞うように心がけています。
    休日はスキー場や海に行くのが好きですね。冬も夏もオールシーズンです。冬はもちろんスキーをやりますけど、夏はカブトムシとかクワガタがたくさんいるんですよ。今はまだ孫が0歳と2歳なんですけど、大きくなったらおじいちゃんとして一緒に行きたいですね。自然の中ですくすくと育って、自然を愛する大人になってほしいですね。